あなたに欠けていると思うものは何ですか?
そう問われたときに浮かんだのは「主体性」という言葉でした。
ごく最近の体験です。数人の友人たちと立ち上げたプロジェクトが進行して行く中、私はだんだんに方向性を見失っている自分に気が付きました。ところが、私(のエゴは)立ち止まろうとするよりも、むしろ走り出したのです。
私のスーパーエゴは「何とか形にしないと!」とか「期限が迫っている。」「講師としての責任を取るのが先決だ。」などと追い立てるので、私のエゴは焦燥感に取り巻かれていました。
そこで立ち止まれないというのが問題なのですが、その焦燥感の背後には、無力感があったのです。状況は悪化するばかり。焦りから来るストレスと、友人たちとの不調和、、、負のサイクルというやつです。
幸いなことにインクワイアリー(自分に問う手法)の機会があり、自分は無価値で無能だという感覚、いわゆるホール(穴)に触れるのを避けるために走っていたことに気づくことができました。
無価値・無力に関連する子どもの頃の体験は何ですか?
あえてこのインクワイアリーをしてみると、軟弱だった子供時代を思い出します。からだも弱かったのですが、メンタル的にも愚鈍な方でした。自分の価値を見出せなかった幼い少女は、無口でシャイで、人前に出ると、もじもじして顔を赤らめるので余計にからかわれる。たとえそれが励ましの意図からのものだったとしても、「ほらやってごらん?」「できるはずでしょ?」と言った大人たちの言葉は、彼女をますます委縮させました。
他の子どもたちよりもほんの少しゆったりした時間の流れの中にいた少女は、たんにあと少しの時間・空間が必要なだけだったのに、自分が劣っていると思い込み、「のろま」というレッテルを自分で貼り付けていました。
小学5年生のときに慢性盲腸炎になりました。「盲腸を切るとまれに元気になる子がいるらしい」という医者の言葉に促されて手術をし、プラシーボ効果かどうかはともかく、ほんとうに元気になって体力もつき、変貌をとげた私は、心理面でも少しは積極性が出てきたのですが、無口は変わらず、先生に気に入られることで価値を見出すようになって行ったようです。
何であれ私の価値を見出してくれる人には服従する。奉仕する。といった態度で、ますます主体性を持たなくなっていった。おまけに「のろま」が嫌で、何事にも素早く終えられるように必死の努力をし、勉強もトップ、何をするのもいちばん! という戦略を組み立てて行ったのです。
今回の出来事で、私にとっての穴である「無価値感」「無力感」が浮上し、インクワイアリーをしたおかげで、その穴にとどまるという体験をしました。
それはもちろん勇気のいることです。でも、くつろいだ気づきをもって、しばらくとどまっていると、やがてどこからともなく浮かんできたイメージがありました。子どもの頃、独りぼっちのときに良く行った場所があります。それは屋根の上と、真っ暗な部屋でした。そのイメージの中で、私は平和な静けさというエッセンスに包まれていたのです。
あの青い空、あの真っ暗闇の中の光ーー私はいつも私のエッセンスと共に在ったと知ることができたのです。