The 禅

信頼し、瞑想して、見る

今朝のOsho講話から一つ。

瞑想に入るときに、まず「信頼する」というのがスタート地点だと語られていましたが、このこと、とても腑に落ちるんです。

雑念を払わなければならないとか、目指すは無の境地だとか言われても、そもそも「無の境地」は悟った人のメタファーで、そんなものがどこかにあるの“かも”なんて思ったが最後、迷走するに決まってます。

自分のメタファーを見つけなきゃ、何のための探求かわからなくなる。というわけで、私は一切合切の願望、目的、到達地点などなどを捨て、ただ信頼と共に坐っているんです。

すると、瞑想はとても楽になる。というのもそこに「ねばならない」「であるべき」がないからです。楽に瞑想できる。そのとき、「見る」はとても簡単になります。

私自身も勘違いしていたというか、そこのとこどう言語化して良いかわからなかったことがあるんですが、ウォッチング(見守っている)というときに、大抵の人はそのウォッチャー(見る者)がどこか(多くはちょっと後ろ側の高いところ)から行為する者を観察しているという見方をします。その行為の中に入っていない。入ると見失うからです。

でも、瞑想的に見守っているというのは、その行為の中にいて目覚めていることなのです。

私は一度「独りでいることの不安」の中にトータルに入った経験があります。マインドは、「瞑想者が近くにいるようなコミュニティーに住んだ方が良い」とか、「都会のど真ん中は健康に良くない」とか言うわけです。その影響というのはすごくって、体感的に胸がドキドキしたり、呼吸が浅くなる、疲労感を感じてしまう、などの影響が出ました。一般的には何度目かの更年期障害とか言うのでしょうね。

それでもただ信頼に戻って、1時間の瞑想のために坐り、見る、を続けていくうちに、非常に面白いことに、「ああ、そう言えばそんなことがあったな。」という感じになっているんです。不安はどこかに消えちゃった。あれ? って感じです。

みなさんが雑念と呼ぶそのマインドは「お祓い」するんじゃなくて、しっかり「見る」ことで勝手にどこかに消えていくらしいです。

もちろんしばらくの間は恐かったです。胸のドキドキに入っていくと心臓が止まりそうなくらい! それに、もう歳だしとかありとあらゆる不安材料がドッと押し寄せてくるからたまったもんじゃない。外出する気にもならないし、かなり鬱状態だったと思います。それでも逃げずにその「不安」と呼ぶ感覚を見守っていると、その感覚は過去のある経験に基づいていて、つまりは過去から来ていることに気づいたんです。

何か一つのことが腑に落ちた。そして、また別の不安材料が出てきたら、それを見る。その繰り返しだったなあ、、。

道のりは長いかもしれない。でも、道は確実に続いている。