The 禅

瞑想はセラピーとどう違うのか?

Oshoがワールドツアーのときに短期間滞在したというインド、マナリのホテルロビー(本文には直接関係ありません)

瞑想は一人でやるもの。セラピーは他者から受けるもの。どちらも気づきを促しますが、単刀直入に言うと、セラピーを受けても瞑想しなければ、その気づきは水泡に帰すと私は考えます。セラピーは今まで無意識だったことに気づきを与えてくれます。ゆえに私たちはある種の興奮を感じます。「ああ、そういうことだったのだ!」「やっとわかった!」「ここで気づいて良かった!」

大抵の人はそこで満足してしまうので、「これから気を付けよう。」「もう二度と同じ過ちは繰り返さないぞ。」と言ったことすら忘れてしまい、日常の忙しさの中にまた自分を見失って行くのです。

もしあなたが意識的でいたら、同じ過ちを繰り返すことはありません。ほんとうに目を覚ましたのなら、同じではあり得ないーーところが、重くてどんよりした集合無意識の日常に戻るや否や、アメーバーのような無意識エネルギーの中に取り込まれてしまうのです。

もちろんすばらしいセラピーもたくさんあります。もちろん質の良いセラピーを受けた人はしっかり目を覚ますでしょう。そしてその場合も瞑想は大きく貢献します。基本的に瞑想は【意識的でいる】ことをサポートするのです。

私がさまざまなセラピーを習得するようになったのは、瞑想を知ってからです。すでに瞑想がベースにあったし、前述したことは技法を教えてくれたすべてのOshoセラピストたちから骨の髄まで叩き込まれています。

Oshoは70年後半から80年にかけて、彼の瞑想コミューンに盛んにセラピーを導入していました。エサレン研究所からやってきた最新のボディーワークを筆頭に、ゲシュタルト、プライマル、エンカウンターなど心身統合的セラピー、グループワーク、ペインティングや歌や踊りや演劇といった芸術活動ーー81年にはじめてプネーのOshoコミューン(現在はOsho瞑想リゾートと改名)を訪問した私は、右を向いても左を向いても興味深いグループがいっぱいで、それだけでエキサイトしていたのをおぼえています。

最初にソフトエンカウンターのグループを受けました。それから数種のボディーワーク、ペインティング、演劇、ファミリーコンステレーション、数種のプライマル、それからしばらく間を置いてグルジェフ・ムーブメンツやヒプノセラピーも受けています。

そして、どのグループに参加しても、朝はダイナミック瞑想を、夕方はクンダリーニ瞑想を受けるように促されるので、ほとんど毎日二つは瞑想していました。そうして自分自身の内面にしっかりと着地することで、グループワークでの気づきがアタマの理解とは別の、存在全体に吸収されて行ったのだと思います。

80年半ばにOshoは「瞑想セラピー」なるものをデザインしました。ミスティック・ローズ、ボーン・アゲイン、ノーマインドがその代表的なものです。ここでちょっと彼の言葉に触れてみましょう。

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。崇拝や賞賛の的になれる。ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。
それはエゴを養ってくれる。
だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。いまと違った生き方へと導かなければならない。それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。これは反発を招く。人々は敵意を向けてくる。人々は怖がる。助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。一面的な働きかけしかしない教師たち。彼らは美しい花ではあるが、あまり役に立たない。

ジッドゥ・クリシュナムルティは、過去40年あまり、話し続けてきた。人々は彼に耳を傾ける。多くの人が40年以上にわたって彼の言葉に耳を傾けてきたが、彼らの意識にはなんの変化も起きていない。もちろん、もっと知識は増している。議論や理屈がもっと得意になっている。議論の相手としてなら、とてもよろしい。観念の領域での微妙きわまりない題材を論じるのに慣れている。目覚め、瞑想、意識をはじめとする多彩なテーマについて、こと細かに議論する。とても有能、とても利口になっている。だが、あいも変わらず凡俗であり、あいもかわらず愚かである。変わったのはひとつだけ。クリシュナムルティから仕入れた知識によって愚かさを隠すことができるようになった。クリシュナムルティは知識人の玩具になった。彼はあえて人々の人生に踏み込もうとしなかったからだ。それをするのはもちろん危険なこと、火を扱うようなことだが。

シュリ・ラマン(ラマナ・マハルシ)も、人々にとって、まったく申し分のない人物だった。寺院で静かに坐る聖者。人々はやってきて、花を捧げ、彼を礼拝する。彼はただそれを見守るだけだ。もちろん美しく見事な人物だが、一面的であったことは否めない。人生を変えるほどの衝撃を与えなかった。クリシュナムルティが人々の知性に訴えたのに対し、彼は人々の感情に訴えた。ラーマクリシュナも同じだった。多くの人たちが感動し、歓喜の涙を流した。だが、それが彼らを変えることはなかった。歓喜の涙は一時的なものだ。家に帰れば、自分がまったく変わっていないことに気づく。

グルジエフはまさにパイオニアだった。グルジエフとともに、人生における精神性の追求の新しい概念が生まれた。彼はそれを「第四の道」(知性/感情/肉体のすべてに働きかける道)と呼んだ。私もこの「第四の道」を追求する。彼はひどく誤解された。というのも、人に知識を授けたり、人の心を慰めたりには興味がなかった。整然とした理論を提供したり、夢を見させてあげたりには興味がなかった。涙や感激や感傷を誘ったりせず、尊敬も求めなかった。彼は人に全面的な変容をもたらそうとした。人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。それを直さなければならない。だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。怖がられる。少数の勇気ある者だけが、グルジエフのような人物に近づいていく。たいへんな勇気が必要だ。だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる。— Osho, “The Dhammapada” Vol. 2, #2 より

この言葉から推測できると思いますが、彼のデザインした「瞑想セラピー」は人々に変容をもたらすためのものです。たとえばミスティック・ローズという瞑想セラピーは3週間のプログラムです。最初の1週間は、毎日3時間ただ笑います。次の1週間はただ泣きます。そうすることで、あなたの中のもやもやした感情は完全に解き放たれるのです。最後の1週間のサイレンス瞑想には今まで味わったことがないくらいの静寂に包まれて坐ることになるでしょう。

私はこれまでに3度このプロセスを体験していますが、意味もなく笑っている間にもアタマの中にはいろんな考えがやってきては消えてゆきます。あたかも笑いがそれを吹き飛ばしてくれるような感覚です。泣きのステージに入ると、悲しみ、哀れみ、痛みなど、ハートが傷ついた過去の記憶が次から次にやってきては消えてゆきます。そう、まさにこの間にセラピー的な癒しが起きているのです。最後のステージにはびっくりするくらい自分の内側にセンタリングしているのがわかります。

当時エンライトメント・インテンシブと呼ばれた瞑想プロセスは、セラピーにカテゴライズされるものではないのですが、Oshoに会いに来た訪問者はかならず受けた瞑想だと聞いています。後にWho is in?というふうに呼び名が変わったのですが、これだけいろんなことを経験してきた私が、ファシリテーターになるくらい価値を置いている瞑想リトリートです。

来月久々に開催することもあり、ここに紹介しておきます。このプロセスは禅の公案を用います。インテンシブに自分の内側にインクワイアリー(問いかけ)を向けてゆくので、ある種のセラピー的作用をもたらします。それは今まで知らなかった自分自身とふたたび出会って行く感覚なのです。そこに心理的ないやしが起きます。セラピストがいないのにセラピーが起きるーー私が価値を置いているのはそういうところです。

 

10月18日~21日(3泊4日)
Who is in?瞑想インテンシブ in 女神山

 

 

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