The 禅

瞑想は語るものではなく、体験するもの

もしもあなたが小さな窓から見た空を本物の空だと思い込んでいたとしたら、こんなに不幸なことはないでしょう。それと同じように、瞑想についての本を読んだり体験者の話を聞いて分かった気になっているとしたら、こんなに馬鹿げたことはないのです。

瞑想をレッスンするというとき、それはたんたんと同じことを続けることを指します。それは、他の技法のように段階的に学び習得していくことではないです。たとえば、長く坐ってもそれが苦痛ではなくなるということはありますが、それはむしろだんだんリラックスしてきたというだけのことで、何か特別な技を身につけたわけではない。

瞑想は、マインドにとっては信じられないほど退屈で、面白くもなんともなく、どのような興奮も快楽も達成感も不思議体験も神秘体験もない! そう、通常あなたのエゴを満足させるこれらのことは、見事にないのです。

だからやっていくうちにエゴは囁きます。

「おい、いつまでこんなつまんないことやってんだ。そろそろフケヨウゼ。」途端に体のあちこちが痛く感じられてきます。「先生足がしびれました。腰が痛いです。もうだめです。」

そこでギブアップしそうになったときに、そのマインドについて行かずにたんたんと呼吸に戻るーーこれはむずかしいことでもなんでもなく、日々の練習が必要なだけです。

 

私は瞑想を教えるようになったころからずっと自分に言い聞かせてきたことがあります。それは、「ティーチャーは決して悟れない。」というマスターの言葉でした。人に教えているとつい自分も一緒に瞑想した気になる。でも、教えているとき、私は参加者を見守る役目があるので、ときどき音源をチェックしたり残り時間をチェックしたりします。トータルに自分の瞑想に入っているわけではないのです。

その時間と自分のために坐る時間は分けなきゃいけない、とわかっていながらつい言い訳をしてしまう。「まあ、全然やらないよりかは良いか。」と。これも実に巧妙なエゴのゲームです。気を付けていると言いながらあっという間に数年が経ってしまいました。

でも小さな空ではなく、本物の空をずっと見つめてきたからには、それを忘れることは、できないですね。

 

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