The 禅

そもそも「雑念を払う」というアイデアはどこから来たのか?

たとえば私は子供の頃から「集中力のために雑念を払うべし!」という種の言葉を耳にしていました。そこからの連鎖で、お寺、修行、お坊さん、お経を唱える、などが出て来ると、シンプルに額にしわがよるーーだって「べし」ということにろくなことはないし、「修行」なんて時間がかかりそうだし、ムリムリというのが素直な反応だったことを思い出します。

そして、極論だとわかっている結論から申しますと、この言葉はもう死語にした方が良いと考えます。なぜなら、雑念=マインドという実態のないものをふり払う努力そのものが「べし」に付随する雑念を作り出すわけで、そのような出口のない問答に入って行く暇があるなら、正しいやり方で静かに目を閉じることではないでしょうか?

「坐禅は、呼吸だけに専念し雑念を払う方法です。」のような使われ方が一般的だと思いますが、この最後の言葉を削除すれば良いだけなんです。

「坐禅は、たんたんと呼吸を見守る方法です。」ジ・エンド。専念するのも不必要--その念とは雑念のことですから。

たんたんと玉ねぎを刻む。たんたんと炒めて、たんたんと調味料を加えながら味をととのえ、さらにたんたんと炒め、他の材料と適量の水を加えて、さらに味をととのえている間、あなたは何かを考えるでしょうか? それとも、長年の勘を頼りに、あと少しの塩、あるいはあの味が足りないのかもしれないというときに、何か考えていますか?

私にとってはそれらは雑念などではなく、閃きです。そこで「うん!」と頷いた瞬間に、至福の一品が出来上がるわけじゃないですか! いただきま~す。

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