The 禅

ブッダは一次元的。Oshoは多次元的。

Oshoというマスターのエッセンスは、カラフルで、生き生きと躍動しており、ダイナミックです。そこには歌と踊りがあり、限りない愛に満ちています。

ブッダの時代には科学もなければ最新技術もないわけですから、音楽や芸術の方向には意識が向かなかったかもしれませんが、それでもあまりに一次元的ーー人生は『無常』で、はかないものーーという教えは、もはや、現代社会に当てはまらないのではないかと。

日本という国は、宗教的な意味での仏教の影響が非常に大きく、そこにこの一次元的エッセンスが充満していると見るのは唐突過ぎるでしょうか?

たとえば、「~~ねばならぬ。なぜなら~~だから。」という一方的な指示が「上」から降りてくるとき、「下」に置かれてしまっている私たちが、ブツブツ言いながらもうやむやにしてしまうという集合無意識構造には、究極的にこの「一次元的教え」があるからだと、私は感じています。信条に逆らえない、反逆心を持つのは恥ずべきことで、それこそバチがあたる。自分だけではなく「家名」に泥を塗る行為だと。

 

子供の頃、仏壇の前で手を合わせることはお箸の持ち方を習うのと同じ位置づけで習ったことでした。正座も、ふすまの開け方も、あれやこれやの「ねばならぬ」も、その理由がわからないまま親から入ってきたことでした。でも、「つねに移り変わる人生ははかないもの、執着していることを手放しなさい。それが解脱の道だ」と言われても、そもそも解脱って何よ、というモヤモヤは成長するにつれ高まって行ったのです。

 

数十年前にOshoに出会ったとき、彼は瞬間ごとに<生>が運んで来る豊潤な香りを吸い込み、甘美な蜜を味わい、「今」を生きる道を示してくれました。

イエス! Osho! 

これこそ私が探していた道、これこそブッダの真の教えを多次元的に理解する道だと、確信したのです。