The 禅

なぜなら、私は私が誰かを知っているから

ヒマラヤで坐っていた時もあった。それはそれは静かな時間だった。山から下りた途端、都会の喧騒の中で、迷子になりかけた。でも、かろうじてまともな意識を保てたのは瞑想のおかげだ。

とは言え、インドに6年も暮らしたせいか、都会生活のしんどさは呼吸困難をきたすほどで、周りの人がどうやって自分を保っていられるのかと首を傾げざるを得なかった。

彼らのやり方を真似てみると、確かに一時しのぎにはなった。おいしい食事にお酒、楽しいおしゃべりと小旅行と興味深い技法の学習、安全・安心を合言葉に人脈を広げ、好きなときに好きなところへ行けるだけのお金を稼ぎ、人から信頼を得て、偉い人になっていく。確かにそれは一時的に安心・安全をもたらしてくれるだろう。安心・安全さえあれば良い日本という国で生きていくにはもっとも良い方法だ。

でも、幸か不幸か私にはもはやそのような偽りの生き方は通用しない。一時しのぎは意味をなさないばかりでなく、害でしかないのだ。事実、私はいつも体調を崩していた。

一般的な成功した日本人のステージである忙しさに足を突っ込みかけて身の危険を感じた私は、必死で10日間の空白の時間を確保し、瞑想リトリートに参加した。

文字通り「駆け込み寺」だったが、その選択は正解だった。

やっとまともな生活が戻ってきた。忙しさとは無縁の、ベリーベイシックの生活。びっくりする金額の、〇〇税という名の請求書が次から次に届く半面、通帳の残高は減るばかりなんだけど、それが私の生き方を邪魔することには、もうならないだろう。

なぜなら、私は私が誰かを知っているから。そして、世の中のほとんどの人は、それに気づいていないから。

どっちが強いと思う? どっちがより愛に満ちて、豊かさを分かち合えると思う?

そして、その選択をするのは、他のだれかではなくあなた自身なのだ。

エース・ダンモ・サナンタノ
ーー私たちは同じ法の下にある