
私がしっかりと今ここにいることに働きかけることでのみ、私の注意力は高まります。その注意力がより良い質を持っているとき、私はそれが弱まらないよう維持することに取り組み、その本質が奪われるのを防ごうとします。それを試みてできないと、私は再び試みるということをします。そして私は、それができなくても、このことが私から何を必要としているのかを理解し始めます。戻ってきて、再びmanifestation(顕在化)に向かって行くという取り組みにおいて、私は私の注意が完全に奪われてしまったことに気づきます。それは私にとって完全な喪失です。しかし、それがさほど遠くに行かなければ、磁石のように引き戻すことができるのです。その私の注意力の動きの中で、私はそれ自体の働きにおける何かを学ぶのです。私は顕在化に向かって行かなければならないのですが、私の注意が生命にも向かっていて、内側にも向かっているのでない限り、私は常に自分自身を見失うことになります。
私たちはそれが平等に分けられた一つの注意だと思っていますが、実際にはそれぞれの部分は平等ではなく、同じではありません。そこには私が経験しなければならない大きな違いがあります。もし私の努力を一定の方法で集中させることができなければ、私は自分自身を見失うことになるでしょう。私は、必要とされる注意の質を持っていないので、それを行うことができないということを見るべきなのです。ここに私の努力があり、ここに私が実践しなければならないものがあります。重要なのはこのことだけなのです。(The Reality of Beingより)
グルジェフがムーブメンツを託した女性、ザルツマンの著書「The Reality of Being」は、何もすることがない豊かなひとときに取り出してきて読む本です。ほんの数行読むだけで、心に深く響きます。今回響いたのはこの段落の最後の2行。
私は、必要とされる注意の質を持っていないので、それを行うことができないということを見るべきなのです。ここに私の努力があり、ここに私が実践しなければならないものがあります。重要なのはこのことだけなのです。
第一にこのことに気づいて、それを認めている彼女の態度に感銘を覚えました。アウェアネス(気づき・意識的でいること)に対して、グルジェフの教えもそうですが、ザルツマンの話すことは綿毛の先端まで意識が向かうような緻密さを感じます。でもそれが単に頭の理解として入って来ることはなく、体感的に受け止めた上で、思考が後からついてくるような不思議な感覚で肚に落ちて行きます。しかもそこには時間の経過がある。
ムーブメンツのティーチャー、アミヨが、「この本はゆっくり読みなさい。」と言ってくれてたので、10年経った今もまだ半分も読めていないのですが、いつも本棚にある一冊です。
私がグルジェフ・ムーブメンツを続けているのは、私の人格の固着が「怠け者」ということに気づいているからです。外見的にはシャープで何でもテキパキこなすように見られがちですが、いろんなものを抱え込んでおいて急に全部をほり投げるとか、やっと机に向かってもダラダラと余計なことばかりして仕事が進まず、結果余分なストレスを抱えるなどを繰り返していました。ムーブメンツは自己想起のためのたくさんのエクササイズを与えてくれます。たとえば今は「背骨をおぼえておく」というテーマと共に、あるエクササイズを続けていますが、そのようなある種の「宿題」があることで、怠けクセはどんどん姿を消して行ったのです。
私にとって、ムーブメンツとインクワイアリーは、私の生命・勇気・歓びといった本質を高めるために実践してゆきたい二つの柱です。「アート・オブ・インクワイアリー」ではムーブメンツで言う「思考・感情・肚」の3つのセンターについてや、スティルネス(内なる静けさ)を実践しながら、探求の仕方を詳しく説明してゆきます。